古事記誕生(こじきたんじょう)のころの日本(にほん)は内憂外患(ないゆうがいかん)の激動時代(げきどうじだい)
660年(ねん)に同盟関係(どうめいかんけい)にあった朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の百済(くだら)が唐(とう)と新羅(しらぎ)の連合軍(れんごうぐん)に滅(ほろ)ぼされました。百済(くだら)を復興(ふっこう)するため日本(にほん)は出兵(しゅっぺい)して唐(とう)と新羅(しらぎ)の連合軍(れんごうぐん)と戦(たたか)いました。
そして663年(ねん)に白村江(はくすきのえ)の戦(たたかい)いで日本(にほん)は唐(とう)に大敗(たいはい)をします。これをきっかけとして日本(にほん)は、唐(とう)の優(すぐ)れた政治制度(せいじせいど)を導入(どうにゅう)して、これまでの倭国(わこく)から中央集(ちゅうおうしゅう)権国家(けんこっか)へ生(う)まれ変(か)わろうとします。
しかし、672年(ねん)に天智天皇(てんじてんのう)の子供(こども)の大友皇子(おおとものおうじ)と弟(おとうと)の大海皇子(おおままのおうじ)が皇位(こうい)を争(あらそ)って壬申(じんしん)の乱(らん)が起こります。大海皇子(おおままのおうじ)が勝利(しょうり)を収(おさ)めて680年(ねん)に天武天皇(てんむてんのう)となって、即位(そくい)しました。当時(とうじ)の日本(にほん)はまさ内憂外患(ないゆうがいかん)の激動(げきどう)の時代(じだい)でした。
白村江(はくすきえ)の敗戦(はいせん)を機(き)に唐(とう)をモデルにした新(あたら)しい国(くに)づくり
701年(ねん)に大宝律令(たいほうりつりょう)が制定(せいてい)され、正式(せいしき)に国名(こくめい)が倭国(わこく)から日本(にほん)に変(か)わり唐(とう)をモデルにした律令国家(りつりょうこっか)が完成(かんせい)しました。白村江(はくすきえ)の敗戦(はいせん)は、倭国(わこく)から日本(にほん)という新(あたら)しい中央集権国家(ちゅうおうしゅうけんこっか)の建設(けんせつ)を促(うなが)したと言(い)えます。
古事記(こじき)は、日本(にほん)の国(くに)の成(な)り立(た)ちや、日本(にほん)を統治(とうち)する天皇(てんのう)の正統性(せいとうせい)などを解(と)き明(あ)かすことによって、新生日本(しんせいにほん)を強(つよ)くアピールする狙(ねら)いがあったようです。
古事記(こじき)は、古代日本人(こだいにほんじん)の心(こころ)や物(もの)の見方(みかた)、価値観(かちかん)がわかる貴重(きちょう)な歴史書(れきししょ)です。
いまでは、手軽(てがる)に文庫(ぶんこ)で読(よ)むことができます。みなさんも一度手(いちどて)にとってみてはいかがでしょうか?
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