(如来(にょらい))如来(にょらい)とは、悟(さと)りを開(ひら)いたものの意味(いみ)であり、つまり釈迦(しゃか)だけが如来(にょらい)であったのですが、後(あと)に意味(いみ)を拡大(かくだい)して多(おお)くの仏像(ぶつぞう)が加(くわ)わっていきました。如来(にょらい)の基本的(きほんてき)な姿(すがた)は、出家(しゅっけ)の姿(すがた)となっています。菩薩(ぼさつ)などとは異(こと)なり、服(ふく)をまとうだけで身体(からだ)に一切(いっさい)の装身具(そうしんぐ)をつけず、仏像(ぶつぞう)の基本的形(きほんてきかたち)を示(しめ)しています。
日本(にほん)の寺院(じいん)によく祀(まつ)られている如来(にょらい)として、すべての仏像(ぶつぞう)の基本(きほん)とされる迦如来(しゃかにょらい)、左手(ひだりて)に薬壺(やっこ)を持(も)ち病(やまい)の平癒(へいゆ)を祈(いの)る薬師如来(やくしにょらい)、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に導(みちび)く阿弥陀如来(あみだにょらい)、頭(あたま)に宝冠(ほうかん)を乗(の)せあらゆる仏(ほとけ)の中心(ちゅうしん)に座(ざ)するという大日如来(だいにちにょらい)、そして大仏(だいぶつ)としてよく知(し)られている盧舎那仏(るしゃなぶつ)などがあります。
(菩薩(ぼさつ))菩薩(ぼさつ)は、如来(にょらい)となるために修行(しゅぎょう)している者(もの)のことです。如来(にょらい)を中心(ちゅうしん)の仏(ほとけ)とすれば、如来(にょらい)の教理(きょうり)を実践(じっせん)するなど、如来(にょらい)を助(たす)ける役割(やくわり)を担(にな)っています。菩薩(ぼさつ)は独尊(どくそん)として礼拝(れいはい)されるとともに、釈迦三尊(しゃかさんぞん)、藥師三尊(やくしさんぞん)のように如来(にょらい)の両脇(りょうわき)に二菩薩(にぼさつ)が脇侍(きょうじ)として祀(まつ)られる例(れい)も多(おお)く見(み)られます。菩薩(ぼさつ)は釈迦(しゃか)が出家(しゅっけ)する以前(いぜん)の姿(すがた)とされ、古代(こだい)インドの貴人(きじん)にならって装飾品(そうしょくひん)をまとった高貴(こうき)な姿(すがた)となっています。
日本(にほん)でよく見(み)られる菩薩(ぼさつ)として、さまざまな形(かたち)で人(ひと)を救(すく)うという菩薩(ぼさつ)の中(なか)で最(もっと)も信仰(しんこう)を集(あつ)めている観音菩薩(かんのんぼさつ)、智慧(ちえ)の菩薩(ぼさつ)である文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、象(ぞう)に乗(の)った普賢菩薩(ふげんぼさつ)、片手(かたて)を頬(ほお)に当(あ)てた半跏思惟像(はんかしゆいぞう)で知(し)られる弥勒菩薩(みろくぼさつ)、そして大衆(たいしゅう)の信仰(しんこう)を集(あつ)める地蔵菩薩(じぞうぼさつ)などがあります。
(明王(みょうおう))明王(みょうおう)は非常(ひじょう)に強(つよ)い力(ちから)を持(も)ち、怒(いか)りの形相(ぎょうそう)で人(ひと)の悪心(あくしん)を善(ぜん)に導(みちび)く仏(ほとけ)の使者(ししゃ)です。人間界(にんげんかい)に災(わざわ)いが炎(ほのお)となって襲(おそ)うのを防(ふせ)ぐ不動明王(ふどうみょうおう)。欲望(よくぼう)、怒(いか)り、愚(おろ)かさの三毒(さんどく)の煩悩(ぼんのう)を防(ふせ)ぐ降三世明王(ごうざんぜいみょうおう)、さらに軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、大威徳明王(だいいとくみょうおう)、金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)を加(くわ)えた明王(みょうおう)を五大明王(ごだいみょうおう)と呼(よ)んでいます。
(天部(てんぶ))古代(こだい)インドの神々(かみがみ)を吸収(きゅうしゅう)したのが天部(てんぶ)です。仏法(ぶっぽう)に帰依(きえ)し、世(よ)の人々(ひとびと)を守(まも)ることを仏(ほとけ)に誓(ちか)っています。四天王(してんのう)と呼(よ)ばれる増長天(ぞうじょうてん)、持国天(じこくてん)、広目天(こうもくてん)、多聞天(たもんてん)はよく知(し)られ、他(ほか)にも毘沙門天(びしゃもんてん)、金剛力士(こんごうりきし)、吉祥天(きっしょうてん)、弁財天(べんざいてん)などがあります。
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